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夏目漱石、小説のかたち

 長いこと文章を書いていなかったので、出だしを書けない。白いテキストに向かい合ったまま、ぼんやりしていると、手がいつのまにかブラウザを開いている。ものを書く習慣は身によくつかない。反面ブラウザを開けるのは手癖にまでなっている。パソコンで書こうとするとどうしてもこうなってしまう。

 もし何か書くときは、ノートを使うようにいる。といっても書くのは出だしだけで、そこさえ決まれはパソコンでも書ける。少なくとも書いているあいだはブラウザを開く余裕がないからだろう。
 まあそんなふうで、ブラウザを開いて、行人のネット上の書評、wikipediaやアマゾンのブックレビューを眼の前でちらちらさせていたら、昔中学の授業で同じ漱石のこころを学んだことを思い出した。
 こころは行人の後に書かれた作品で、「私」が先生から受け取った手紙を読むところや、その手紙を読む最終の章に向かうまでに、先生のこころを「私」や奥さんの立場から追っていくところ、「私」と奥さんは先生の本当のこころが分からず、その分の距離を感じてしまうところなど、構成も人物もとてもよく似ている。
 言わずもがな、感想は読後に書くものだ。読後、とくに読んで間もないうちは、起承転結の結部分の印象が強く残っている。こころの結は手紙の章で、やはり皆、私も含めてだけれど、その印象に引きずられながら感想を書くことになる。行人の感想、青山一郎の孤独にめいめい思うところを打ち明けている文章を読んでいるうちに、こころを読んだときに私が引きずっていた印象や、そのとき考えていたことが思い出された。
 こころは全三章あり、手紙の前の章、「私」が実家でぼんやり生活している、先生とはかかわりの無い長い章がある。どうして、こんな意味のない章があるのかと、そのころ疑問に思っていた。その後ドストエフスキーから文学にはまり、小説とはこういうものという自分なりの考えが出来てくると、余計にこの章の存在が気になった。私はこころをすでに四度読み返したけれど、それでも、そうして首をかしげている状態はずいぶん長く続いた。ドストエフスキーやトルストイを頂点とする文学的な価値観念が、私を半ば領していたからでもあるが、客観的にも、子供の私にこの章を必要とする理由を見出すのは難しかっただろう。

 じっさい、授業のほうでもこの章がどうしてあるのか取り上げていた覚えがある。内容は覚えていないので調べてみると、夏目漱石自身が心自序として綴った文章があった。短いのでまるごと引用する。

 『心』は大正三年四月から八月にわたつて東京大阪両朝日へ同時に掲載された小説である。
 当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる積だと読者に断わつたのであるが、其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とう/\その一篇丈を単行本に纏めて公けにする方針に模様がへをした。
 然し此『先生の遺書』も自から独立したやうな又関係の深いやうな三個の姉妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを『先生と私』、『両親と私』、『先生と遺書』とに区別して、全体に『心』といふ見出しを付けても差支ないやうに思つたので、題は元の儘にして置いた。たゞ中味を上中下に仕切つた丈が、新聞に出た時との相違である。
 装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣つて見る気になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。
 木版の刻は伊上凡骨氏を煩はした。夫から校正には岩波茂雄君の手を借りた。両君の好意を感謝する。

 つまりこころは三つの短篇の集積だった。別々の短篇として捉えれば、章と章のあいだの繋がりが必要なくなるのだろう。夏目漱石は小説家としては、自分らしいものが書きたいだけだと宣言するほど野心のない人で、他の文学の巨匠のように、思想と格闘したり、文学理論を建築するような気風は全くなかったから、自分の創作物の構成についても、これ以上に書くべきことはなかったのだろう。この文章も、素朴といえばあまりに素朴だ。両親と私の章は必要なのか、という疑問の答えにもなっていない。

 自分の創作物に対して素っ気無い漱石の代わりに、と言ったら相当に大げさではあるけれど、現在の私の解答を書いておく。

 小説は、一本の木のようなものだ。木はその姿を読む人に見せない。しかし行間から、木の息遣いが聞こえてくる。根幹を流れる水の音が聞こえる。そこから木の生長していく様子が感じられる。

こころはどうだろう。
木の息遣いが聞こえる。根幹を流れる水の音が聞こえる。その音は途切れ途切れだ。
もっと耳を澄ますと、葉のさざめく音がきこえる。枝と枝が呼応するように、風になびいて葉を打ち鳴らしている。
一本の枝が、始終風にゆれてきしんでいるのが聞こえる。
そのきしみは枝から幹に伝わり、読む人の耳に入ってくる。
他の枝には風になびいているので、きしみが伝わらない。
風になびく枝達の、葉のさざめきが、音と音が交響している様子が、きしむ枝を一層孤独にしているのが分かる。

 ここでは、きしむ枝は先生で、風にゆれ葉をさざめかせる枝はそれ以外の人々である。彼らはそれぞれの世間に順応しながら、順応することの出来ない先生の孤独を強調する背景色になっている。両親と私の章は、独立した篇として読むことも出来るが、この孤独を強調するのに一役買っているとも言い得るだろう。

 ところで、漱石が別々の篇を一つの作品とした例は、こころのほかに彼岸過迄がある。
 これは行人の前作で、主人公敬太郎を中心として、一つの篇が彼に関わる人の人生の断片になっている。今読んでいて、まだよく捉えきれていないので何と言っていいのか、どれも独特の心地を読む人に残す好い佳作である。
 きっと読み終えても行人やこころのような強烈な印象はないだろうが、私はこの作品がとても好きだ。
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ICOについて(3)

 少年が、少女の手をひいて歩くゲームといえば、私としてはICOの話は済んでしまう。
 それだから、小説を読んだ、ICOがどうしてプレイヤーに受け入れられたか、という周辺の話をしたのだが、すこしだけ本当のところを掘り下げてみよう。

 古城がある。どこもかしこもほこりかすが溜まっていて、もうどれくらいこうしたまま打ち捨てられているか分からない。あらかた荒らしつくされたのか、どの間を覗いても、椅子や机といった家具も、壁に掛けられていたはずの絵や彫像も見当たらない。人が暮らしていたという痕跡はどこにも残っていない。そんな歴史はなかったかのようだ。
 それでいて、いたるところに松明が焚かれている。間と間をつなぐ扉や仕掛けは、こうなると錆びれて動きそうにないように思えるが、すんなりと動いて道を開ける。庭には雑草ひとつ生えていない。これがもし人為のものとしたら、一体どんな意図があるのだろう。画面ごしから見ている私は、きゅうに寒気を感じた。松明やよく刈られた庭に人の底意を想像したからではない。むしろ超自然的な、いってみれば古城そのものの意思とでもいうようなものが、一瞬だけ頭をよぎったからだ。

 庭から門へいく道の脇に、巨大な騎士の石造が建っている。宮部みゆきもモチーフにしていた、頭に二つ角を生やした異形の騎士像である。
 その騎士像の足元では、ICOの主人公である少年が、少女の手を引いて歩いている。
 少年はICO、少女はエルダという。ただ二人とも、言葉が通じていないせいで互いの名前を知らない。
 イコは年は10くらいだろうか、肌はよく日に焼け、目はくりくりしていて、歩き方から快活な印象をうける。
 古城にいるよりも、夏の山でせみや甲虫を追いかけるのが似合いそうだ。
 手を引かれているエルダは、白瑩くらいの、非常に薄い灰色の短髪で、袖の無い、白いドレスを着ている。肌もぬけるように白く、すっとした黒目なので、モノクロな姿だ。
 宮部みゆきもエルダの姿について小説で書いていたけれど、非常に不思議だ。現実にこんな少女はいないだろう。二次元にしかありえない格好ということではなくて、二次元としてもやはり不思議だろう。

 さておき、力強く歩くイコとはちがい、エルダにはどこかぼんやりしている印象がある。
 真新しいことや場所ばかりで、周囲を首をせわしく動かして見回しているICOに、視線を前にかためたまま淡々とついていっている。
 これまでも、というよりプレイしている間はずっとそうなのだが、イコはなんとか古城から出るために積極的に動いている。エルダは逆に、古城に出たいのか、残りたいのか、その動きからはなかなか分からない、読み取られてくれない。時にはエルダは非常に受け身で、イコが懸命に仕掛けに挑戦しているときに、日当たりのいい場所で散歩しているようなことがある。しかし不思議と腹は立たない。ただ、辛うじて生きているだけの、非常に希薄な命と感じてしまう。
 とつぜん黒い影が現れて、このエルダが連れ去られそうになるとき、私はどうしようもなく焦ってしまう。古城から出ることがこのゲームのゴールだけれど、エルダがいなければ意味がないという気がする。もちろん、エルダが連れ去られた時点でゲームオーバーになるのだが、そんなこととは関係なく、私はエルダを救いたいと思う。


 どうしてエルダを救いたかったのだろう。すでにプレイを終えて数年たった今、私はそう問い返してみる。もちろん、目の前で少女が浚われれば誰だって後味が悪いだろうけれど、それだけではない気がする。良識からいって、誰であれ、人の命の危険があるときに手をさしのべるのは当然ではあるけれど、エルダの場合は特別なのだ。エルダは、誰であれ、のうちの一人ではない。かといって、好きなキャラクター、近しい人に似ているキャラクターというのでもない。だから不思議なのだ。

 多分、それを書くには、私の思い出したくない思い出を、掘り起こしてしまう必要があるのだろう。それには耐えられそうに無い。この作文はここまでで終わることにする。

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