あの夜、少女がススキの原っぱにねそべって、トンボにお話を聞かせた夜、魔理沙も、同じ星空を眺めていました。そして、少女とはべつの、ある女の子のことを思い出していました。
女の子は、お金持ちの家のお嬢様でした。生まれつき体が弱くて、病気がちだったので、ほとんど家から出られず、学校にも行けませんでした。町のほうから友だちがお見舞いにきてくれることもありましたが、女の子のいるお屋敷は町から離れたところにあったので、たびたびというわけにはいきませんでした。それに、お母さんは女の子がまだ赤ん坊だったころに亡くなっていました。
お父さんは、まだ小さいのに母親をなくして、友だちとも満足に遊ぶことのできない娘に、これ以上不憫な思いはさせまいと、娘が望むものはなんでも買ってあげました。あるとき、お父さんはバイオリンを女の子に買ってあげました。お父さんは、娘を演奏家にしよう、音楽を教えようというつもりはなく、ただ気慰みになればと思ったのです。けれどそれ以来、バイオリンをひくことが女の子の一番の楽しみになりました。
魔理沙はそのころから、魔法使いになるために勉強をしていました。寺子屋でも、まわりの子供がお習字をしているなか、ひとりぶ厚い古代言語の本を開いていることもよくありました。
魔理沙とお父さんは、魔理沙の将来について何度か話しあいました。店で修行を積むか、せめて世の中の役に立つ学問に身を置くように、というのがお父さんの意見でした。魔理沙はいつも、尊敬しているひとが魔法使いなので、そのひとのようになりたい、としかいいませんでした。それに、魔理沙には、魔法使いになってその後どうする、という考えはまったくなかったのです。お互い歩み寄る見込みはすこしもありませんでした。
魔理沙のお父さんは、霧雨店という大きな道具屋の主人でした。魔理沙と同じ年のころから、霧雨屋の小僧として働いていたので、放っておけば働きもせずに、へんな本ばかり読みあさっている娘のことを、よく思っていませんでした。それに、魔女は人間に厄災をもたらすという、昔からの言い伝えもありました。人間と仲のいい魔法使いの話など、おとぎ話にしかありませんでした。
お父さんは、お店でちょっとしたことがあるたび、部屋にこもっている魔理沙を呼んで、用事を言いつけました。お父さんは魔法のことはよく分かりませんでしたが、少しでも働くことの何たるかを学んでくれれば、と考えたのです。
魔理沙も、そんなお父さんのことをよく思っていませんでした。魔法使いにとって、時間がどれほど貴重かわかっていない。それどころか、じつの娘よりもお店のほうが大事なんだ。お店の前にたって、お客とにこやかに話す父と、一度でも自分にたいして笑いかけたことのない父とを比べると、魔理沙はいっそう、お父さんが自分のことを愛していないように思うのでした。
女の子の家は、霧雨店のお得意さんでした。魔理沙のお父さんは、女の子の家に届け物があるたび、魔理沙に持っていかせました。魔理沙はいつも、家のひとに品物をわたすとすぐ、屋敷の北側にある大きなはんの木の下にゆきました。そこからは、変わった飾りのついたしろい出窓をとおして、バイオリンを弾く女の子の姿が見えました。
お父さんが言いつける用事のなかで、魔理沙はこの用事だけは好きになれました。家のひとはとても気さくだし、バイオリンの音色にもひかれました。お店からだと遠いですが、お父さんに内緒でほうきに乗っていけば、のんびりする時間は十分ありました。
ちいさな魔理沙はここで、大きなはんの木に身をもたせて、バイオリンの調べに耳を傾けたのでした。
そんなことがつづいて、家の人とも親しくなったあるとき、魔理沙は、いつもどおり品物をわたすと、女の子のお父さんに呼びとめられて、屋敷にあがるように言われました。
「あなたが、屋敷の外で娘のバイオリンを聞いているのを知っている。娘の部屋でなら、もっとよく聞こえるでしょう」
と、女の子のお父さんはいいました。魔理沙は、あなたなんて呼ばれたのは初めてでしたから、すっかり恐縮してしまいました。
二階にあがって、北側の部屋のドアを開けると、そこには、いつもしろい出窓からみえていた、あの女の子がいました。その日から、魔理沙ははんの木の下ではなく、女の子のそばで、女の子のバイオリンを聴くようになりました。
最初の日は、二人とも挨拶ていどしかできませんでしたが、女の子と魔理沙は、すこしづつ、お互いに気を許すようになりました。はじめに、バイオリンの曲や、魔法使いについての話をしました。それからうちとけてくると、お互いの話を、とくにお母さんの話をするようになりました。
二人とも、お母さんを早くになくしていたので、お母さんの写真を持ちよって、お母さんがどんな人だったか、という話をするのでした。その話には、お父さんや家の人、お店の人から伝え聞いた話もあれば、その話にもとづいた創作ということもありました。
魔理沙は、それが創作のときは、きっとこうだと思うけど、と前置きすることもあれば、そうでないこともありました。それは女の子にしても同じでした。そんな話をくりかえすうちに、二人は、実際には覚えていないはずの母親の面影を、はっきりとまぶたの裏に映すようになりました。
魔理沙は、女の子と話をするようになってから、より熱心に魔術書を読むようになりました。修養のためではなく、女の子に話してきかせるためです。
女の子は、魔理沙と話をするようになって、より長い時間バイオリンを弾くようになりました。女の子のバイオリンは、それまでとは明らかにちがってきこえました。女の子は、日々バイオリンから違った音を聞くことが、楽しくてなりませんでした。
それから、魔理沙にきかせるために、お父さんや家の人にお母さんの話をお願いするようになりました。聞いた話が、女の子の想像とくいちがっていたときは、女の子は目に見えて機嫌が悪くなりました。たとえば、女の子がはじめて鶏肉を口にしたときのことです。
女の子の家では、夕食だけは家の人も家族も同じテーブルを囲んで、同じものを食べる、というのが慣わしになっていました。家族といっても、女の子には兄弟もお母さんもいませんでしたし、そうなると世話をする人も少なかったので、結局女の子とお父さんを合わせて四人か五人でテーブルを囲むことになりました。
テーブルにはいつも、女の子が望むものがならびました。といっても、ごうぜいな夕食になるわけではありません。女の子はお肉をまったく食べなかったので、たいてい、スウプに、パン、サラダ、それになにかデザートがつきました。
家の人とお父さんは、それでものたりなかったときは、女の子に分からないように調理場にいって、ハムをサンドイッチにして食べました。それでも、ビーフブイヨンのスープや、チーズとベーコンのたっぷりかかったシーザーサラダなどが食卓に並んだときは、みな、食事に舌鼓をうったあとで、女の子は気を使って、むりにこってりしたものを献立にしたのだろうかと、考えました。
女の子はそれほど粗食でしたが、お父さんも家の人も、そのことを苦しく思ってはいませんでした。亡くなったお母さんも、女の子と同じくらいに粗食だったからです。それに、同じテーブルを囲んで、同じものを食べることが大事なのだと、みな思っていたのです。
それで、魔理沙と女の子が会うようになって二ヶ月ほど後の、ある朝のことです。女の子はいつになく体調がよくて、めずらしく庭に出て、散歩をしていました。女の子はほとんど外に出られなかったので、こんなことでも大きな楽しみになっていました。庭には、ほんのりと朱のさしたつつじの花壇が並び、よく茂った柿の木が木漏れ日をつくって、女の子の歩く路をまばらに染めていました。
「おはようございます、お嬢様。今日のお夕食はどうなさいます」
と、コックさんが女の子にたずねました。このコックさんは庭師もかねていて、いまは、梯子にのぼって、屋敷のほうに伸びすぎた木の枝を切っているところでした。
「ちきんにしましょう」
と、女の子は答えました。庭師のコックさんは梯子のうえで、思わず自分の身だしなみを確かめました。きちんとしましょう、というふうに聞こえたからです。でもすぐに、聞きまちがいに気がつきました。
「チキン、といいますのは?」
「このまえ、チラシで見たの。こういうの」
といって、女の子は手首をまげて、九十度をつくりました。
「そうですか。味付けは、なにがよろしいですか?」
「わからないわ」
「では、お任せくださいますか」
「もちろん」
コックさんは庭での仕事を終えると、念のためお父さんのところに相談に行きました。女の子がお肉を食べるなんて言い出すのは、初めてだったからです。コックさんから話を聞いたお父さんは、友人で、女の子を診たこともある医者に電話をしました。
「そりゃ、食べたいということは、体が欲しているということだ。あの子にはアレルギーはないんだから、心配しなくていいよ。それとも、きみは自分の娘をヤギかウサギだと思ってるんじゃないだろうな」
「わたしも、こんなことを聞くのはへんだと思ったさ。しかし、娘がお肉を食べたいなんて言い出すのははじめてなものだから」
「もっと良いほうに考えたまえ。これは、あの子の病気が快方に向かっている兆候だよ。私が担当医なら、処方箋に『チキン』と大きく書いてやるところだ」
「きみならやりかねんな。それじゃ」
お父さんは、受話器を置きました。
「夕食は、チキンにきまった」
とお父さんはいいました。
「味付けがきまっておりません、旦那さま」
とコックさんがいいました。そして、鶏肉をどう調理するのがいいか、どんな味付けがいいか、二人で議論しました。こうなると、なんとしても女の子においしいと言わせたいところでした。なにしろ、今後の食卓にお肉が並ぶかどうかがかかっていたので、議論には熱がはいりました。
いよいよ、食卓にお肉がならびました。それは、香草と、パン粉のかかったチキンを、オーブンで焼きあげたもので、添えものにマッシュポテトがついていました。女の子がチラシで見たとおりになっていました。
女の子はまだ、フォークとナイフを一緒に使ったことがなかったので、お父さんがすぐとなりに座って、持ち方を教えてあげました。お父さんは、ナイフとフォークを使って、器用に骨から肉を切りはなすと、チキンをおいしそうにほおばりました。
女の子は持ち方をなおしたり、お父さんの食べ方をみたりするうちに、なんとかそれらしくナイフとフォークを扱えるようになりました。
お父さんが、おいしいか?ときくと、女の子ははっきりと、おいしい、と答えました。それで、お父さんは安心して、あとは女の子が食べるのに任せました。
チキンは申し分ないできばえでしたし、女の子もおいしそうに食べていましたから、なにもいうことはないように思えました。
みなが、テーブルにあるものをおおかた食べおえたころ、お父さんは、女の子のまえのチキンがもう骨だけになっているのをみて、おやと思いました。女の子はいつも少ししか食べませんでしたが、それでも、お父さんより早く食べおわることはありませんでした。しかも、使いなれないナイフとフォークを使っての食事だったので、なおさら、もうか、という気がしました。
「チキンはおいしかったか?」
とお父さんはもう一度女の子にたずねました。
「ええ、とっても。また食べたいくらい」
と女の子は答えました。だれも見ていませんでしたが、このときコックさんの目がきらりと光りました。
「しかし、ずいぶん食べるのがはやかったじゃないか」
「見ていらっしゃらなかったのですか」
と、このときお皿をかたしていた家政婦さんがいいました。
「お嬢様は、とちゅうから、手をつかって召し上がったのですよ。だからはやかったのです」
「なんだ、気づいていたなら、注意しないとだめだろう」
「でも、ぜんぜんおかしく見えなかったので。旦那さまだって、隣にいて分からなかったじゃありませんか」
お父さんは女の子のほうに向き直ると、
「次からは、ちゃんとナイフとフォークを使うんだぞ」
といいました。すると、女の子は、
「でも、お母様だって、手で食べてらしたでしょう?」
と、こういいました。
「お父様が召し上がっているのをみて、お母様はそうはしなかったという気がしたのです。だから、お母様がするように食べたのです。お父様の食べかたがおかしいというわけじゃないけれど……」
それを聞いたお父さんは、一瞬、言葉を失いました。
もう一度、
「ちゃんと、ナイフとフォークを使って食べなさい」
といいました。それから、
「お母さんは、けしてそんな食べかたはしなかった」
と、語気を強くして言いました。
お父さんがそんなふうにものを言うのは、とてもめずらしいことでした。女の子はそれを聞くと、口をきゅっとむすんで、そのままなにもいわずに、二階の自分の部屋にもどりました。
「どうして、あんなことをいわれたのです」
女の子が部屋にはいってから、家政婦さんはお父さんにいいました。
「形ばかりのお作法なんて、どうでもいいじゃありませんか。お嬢様は、奥様とおんなじで、ほんものの貴婦人でいらっしゃいます。魔理沙さんと親しくなって、ますます奥様らしくなられて……」
お父さんは家政婦さんの言葉をさえぎって、
「真似をすればいいというものではない」
といって、そのままだまってしまいました。
家政婦さんは、まだ納得のいかない様子でしたが、お父さんにこう強く言われると、なにもいえませんでした。
お父さんが自分の書斎にもどってから、食事の片付けが終わったころ、コックさんと家政婦さんは、調理場にちいさなテーブルを置いて、そこで一息つきました。そこで、コックさんは家政婦さんに、
「奥様は、薄命でいらしたので」
と、ぽつりといいました。家政婦さんは、すぐには何のことか分かりませんでしたが、しばらくして、そうでしたね、と呟きました。
その後、しばらくのあいだ、これまでどおりお肉のない夕食が続きました。
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テーマ : 自作小説