世界は善いものでなくてはならぬという気がほんとうにしだした。冒頭の序曲で『人間』がうわごとのように語る言葉である。
その言葉が生まれるための純な心のありようは、この戯曲のいたるところに見出すことができる。
出家とその弟子は作者の出世作だが、数々の作を残し、作家としての地位を確立させたころに、後日談としてこの作品についての小文を残している。
―――ともかくもこの戯曲は純情がどれだけの作を産み得るかの指標といっていいだろう。それを取り去れば、この作はつまらないものだ。だから反言や、風刺や、暴露の微塵もないこの作が甘く見えるのはもっともである。
人間が読んで、殊に若い人たちが読んでいつまでも悪いことはない、きっとその心を素純にし、うるおわせ、まっすぐにものを追い求める感情を感染させるであろうと今でも私は思っている。
しかしいつまでも私に『出家とその弟子』のような作を書けと注文するのは無理だ。私はもっと塵にまみれて真理を追いつつある。世間にもまれ、現実を知り、ことに今日では貧苦の中に生きつつ国民運動もしている。しかし一生純情と理想主義とを失いたくない。
『出家とその弟子』を読んだ人は是非『恥以上』(改造社発行)を読んでいただきたい。私といえば『出家とその弟子』をいわれるのは私としては有難迷惑だ。私はひとつの境地から、他の境地へと絶えず精進しつつあるものだ。そしてその転身の節目節目には必ず大作を書いているのだ。愛読者というものはそれでなくては作者にとってたのみにはならない。
作家とその弟子が生まれたのは作者が27の頃だが、これが当時どれだけヒットしたか、作家がどういう心境にあるときにこの作を書いたか、この引用からでも充分感じとれるだろう。この小文は青空文庫にも載っている。
いま、この感想を書くために読み返していると、引用したくなるような名言があちこちにある。すでに引用した箇所を広げてみると、
遠い遠い空の色だな。そこはかとなき思慕が、わたしをひきつける。吸い込まれるようなスウィートな気がする。この世界が善いものでなくてはならぬという気がほんとうにしだした。たしかなものがあることは疑われなくなりだした。私はたしかに何物かの力になだめられている。けれど恵みに定められているような気がする。それを受け取ることが、すなわちさいわいであるように。行こう。向こうの空まで。私の魂が挙げられるまで。
ここには、ゲーテのファウストのように、正体の分からない、言葉のものすごい迫力がある。同じようなシーンで、ファウストでは来世(天国と地獄)は中世の絵画のように眼前にくっきりと映し出されるが、ここでは来世は遠い彼方にあり、遠くへと魂をさし出すための力、心が若くなければ生まれない力が、その言葉を象っているようだ。そう考えると、ファウストはゲーテの畢生の大作、出家とその弟子は倉田百三の27の頃の作で、その年齢による違いが気になってくる。
この二つの作品を逐一比較するのはあまり意味がないかもしれない。しかし、最初の場面は、人物の配置や台詞回しからどうしてもファウストを連想してしまう。というより、作者がファウストを想起しながら作ったとしか思えない。「人間」はファウスト、「顔覆いせる者」は火の精であり、顔覆いせる者とは人間の不気味な幻影とも、霊的な、至高な存在とも見出せる。
この二つが決定的に違うのは、「死」に対する畏れである。死後の世界などなんであろう、現実に救いがないのであれば。そういって悪魔と魂を賭けた契約をしたファウストと、同じような観念的な問答をしながら死を畏れ、そこから眼をそらそうとする人間とは、なんという違いだろう。ふと、男女が崖から二人で落ちようといる場面が、人間と顔覆いせる者の前に展開される。顔覆いせるものは呟く。
「わしをまっすぐにみないものの陥る過ちじゃ」
ファウストと人間の差は、そこにあるのか。死を畏れない者と、畏れる者との差は。そう考えていると、人間はすぐさま答える。
「わたしは、あなたをまっすぐに見つめています。あなたの正体を知りたいと願っています」
そこで、おやと思う。ここには、まっすぐに見ようとするものの過ちが暗示されている。なにしろ、人間はこう言いながらも、死から眼をそらそうとしているのだから。顔覆いせるものは死そのものではないとはいえ……。それと同時に、世界は善いものでなくてはならぬ、という独白の生まれるための心が、ここですでに顔をのぞかせている。
そうしてひとつひとつこの冒頭をかいつまんでみると、ファウストの影響のなかにも作者自身の悲痛な独白か聞こえてくるようだ。それに、世界は善いものでなくてはなくてはならぬ、という台詞へ行き着くまでの階段をひとつひとつ上り詰めていくような展開は、まるでキリスト教の世界である。幼児の姿をした天使達がラッパを吹きながら天国へと上る人間を迎えているような雰囲気である。
最後になってしまうが、この作品は仏教文学の金字塔であって、私がここで言っているようなキリスト教文学の産物ではない。冒頭はこの調子だが、これはファウストでいう道化と詩人、興行主たちの冒頭のようなもので、本章と直接の関わりはない。もっとも、この冒頭がこのような台詞で幕を結ぶところに、作者の入れ込みが感じられる。第一章からは親鸞と弟子達の話になり、善悪、業について、死をいかに迎えるかについて、恋について、といった人生の難題にぶつかる人々に、親鸞は真っ直ぐに自分の答えを述べている。この感想は冒頭を拾うだけになってしまったが、テーマをひとつひとつさらっていくのは収拾がつかなくなると気付いたからだ。
一般に、仏教の文学と言われているらしいが、親鸞が宗教家ではなく、一人の人間としての答えを出している以上、いわゆる宗教文学にはならないだろう。また、作者が後に述べているように、これは「純情がどれだけの作を生みえるかの指標」である。私を含めて、読むだけの人間はそこまで考えがまわらないものだが、小説を最後まで描ききるというのは大変なことである。ひとつの芯が書く人間に通っていないと、最後まで描ききることはできない。その芯が、この作では純情であったと、作者は後に思ったのだ。
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