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小さな野良猫の話(1)

 そのとき、私は小学校の高学年だった。塾が終わり、住んでいたマンションまで帰ったとき、玄関に辿りつくまえに猫の鳴き声が聞えた。鳴き声がよく聞えるところまで戻ってみると、そこは一階のちいさな踊り場で、カゴつきの自転車が一台とまっていた。

 猫の姿はなかったが、鳴き声はやまなかった。みゃあん、みゃあんとたて続けに聞えた。姿がみえないのでそのぶん耳をすましていると、みゃあん、と鳴く声はすこしずつちいさくなってゆき、最初よりずっとか細くなって、やんだ。しばらく待っていると、また最初と同じ大きさでみゃあんと、鳴きはじめた。その声も、次第にちいさくなってゆく。

 私は、猫をみるとすぐに触りにいく癖が今でも抜けない。それが道端で出会った野良猫なら、私が気づいたときにはすでにあちらは私をじいっとみている。触りにいくとすぐ逃げるので、やや遠巻きに手を振ったり草を投げてみたり、いかにも子供らしいと言われそうなことをしてしまう。この時分のちいさな私は尚更であったが、このときは、塾帰りで疲れていたせいか、猫は放っておいて帰るつもりもあった。しかしその場から離れられなかった。姿が見えないことがひどく苛立たしかった。鳴き声が消えるたびに何となく焦った。それだけ、すぐそばで消えていく声は切実な響きだった。

 鳴き声が聞いてからどれくらい経ったろうか。十分くらいそうして踊り場にいたように感じたが、案外すぐだったかもしれない。自転車のカゴの中に、黒い板きれのようなものがすっぽり嵌まっているのに気づいた。自転車の止められているところがかなり暗かったのと、そのカゴが目張りしてあったようで、すぐには気づけなかったのだろう。カゴに嵌まっているその板切れを外してみて、ようやくそこに小さな猫を見つけた。

 生後一ヶ月くらいのほんとうに小さな猫だった。乾いた泥がこびりついているのか、毛なみはぼろぼろで、左目は黄色い膜のようなものでおおわれていた。その膜にはなにか嫌な色をした茶色い斑点がついていて、私は目が腐ってしまったのかと思った。ほかに怪我はなかったが、随分ひどい有様だった。私は、可哀想と思うと同時に、嫌悪感を抱いた。片目のない猫を、好きになれないと思った。かわいいとか、愛らしいという印象は多分持たなかった。

 しかしともかく、私は母を呼んで、子猫を家に入れた。探していたときからの気持ちの上でも、また目の前の命をみすみす死なしてしまうかもしれないという建前上でも、このままにしておけなかった。入れてやって、母はとりあえず子猫に暖めた牛乳を平皿に注いで与えた。子猫はそれをちいさく首を動かしながら嘗めていた。

 踊り場で、母にこを呼んでいたのだろうか。私は子猫が牛乳を嘗めているのを見ながら、探していたときのことを考えた。こんなに小さいのに母がいないだと、ようやくここで猫にたいする情が強く私を打った。しかし左目の黄色い膜があるのが、本当に残念だった。
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あまりにも酷い一日

 今日はガラス作品を見るためにサントリー美術館に行くつもりでしたが、気力が沸かず、こんな状態で美術館に行っても虚しくなりそうですから、家に引きこもってました。それで美術館に行く代わりに何をしていたかというと、昔お邪魔していたサイトに眠っているログをあれこれ漁っていました。当時の私の恥ずかしい行いが満載になった文章群を心臓を傷めながら読んでいました。どう考えても美術館に行くよりも虚しい。いま、毎日が充実しているとは言えませんが、こんなに酷い過ごしかたをした日はさすがに無いですね。自戒の意味も込めてここに書いておきます。

 ネット依存度の高い私ですが、パソコンの前に座りきりでも、クラシックのコンサート情報をチェックしたり、囲碁を打ったり、日課になっている英語学習をしたりで、ほんのり有意義に過ごしています。というより、なるべく無為に過ごさないように心がけています。あえて挙げるならこのブログの更新が、誰も見ていないだけに無為な活動にみえますが、ちゃんとした文章で自分の創作や批評ができるようになれば、それに応じて人が来るようになるでしょう。時間はかかるかもしれませんが、そうなるまで文章修行の一環としてプラスに考えています。私の場合、仕事や学校などで文章を磨く機会があるわけではないので、なおさら大事にしなければいけません。

 さておき、自分の書いたものを読むことに充実感などないのですが、疲労感と徒労感だけはロシアの長編小説にも劣らないほどでした。まあ、刺激もないわけではなかったですが。

 今日からなんとか挽回したいですね。とりあえず、続きものの原稿をすこしでいいから書こうと思います。

 (一時間後)……と、思ったのですが、そのまえに私の昔の話を書きます。ICOについて(3)で、ちょっと耐えられそうに無い、といった、今でもあまり思い出したくない話です。

12月18日 三時ごろ

 眠れないのでなにか書いておきます。
 ICOについて、強引にではありますが書き終えたので、自分が昔創っていたノベルの続きを作るつもりです。
 これまで童話調で書いていたのでファンタジーにも挑戦しましたが、そういうものになると、風呂敷を広げすぎる癖があって、今まで一度も完結したことがありません。
 ひどい話です。二重の意味で。

 今頓挫しているノベルもそういうくちで、どこから手をつけていいか分かりません。
 数節だけ、うまくまとめようとして手を入れたのですが、かえって風呂敷を広げる結果になって、沈没した潜水艦内でパイプから水が吹き出、こっちを押さえるとあっちから、あっちを押さえるとそっちから噴水するというような、スラップスティックな状況になっています。
 もっとも童話調なので文章のうえではすましていて、読む側には分からないでしょうが、創作を知っている人ならにやにやしているかもしれません。

 まあともかく。また広げるだけになるかも知れませんが、続きを書く糸口を見つけたので、それを書くために硝子工芸の本を探すつもりです。
 それと、いま、ニューヨークが舞台になる話を構想しているので、ニューヨークが舞台になった小説を読み込んでおくつもりです。
 12月中に読むものはその二種類になるでしょうね。では、おやすみなさい。

読書記録 12月第二週

志賀直哉 和解

 志賀直哉は好きな作家です。暗夜行路はもう何度も読み返しましたが、和解は読んでいませんでした。これは勿体無かった。短編ですが、和解は暗夜行路の対になる作品です。いつもならとりあえず感想を書いていますが、好きな作家、とくに作品から文章を教っている作家の感想を書くとまったくとりとめがなくなるので、書きません。書けないといったほうがいいかもしれません。

 第二週、芥川の短編や小林秀雄のエッセイなどをつまみ読みしていたのですが、一冊の本として読めたのは和解だけです。文章量でいえばICOの5分の1にも満たないものですが、勿論軽い読み物ではありませんでした。二冊分として、31日までにあと五冊読みましょうか。

 今年の終わりが近づいてきました。12月の後半をしっかりと過ごして、いい大晦日を迎えたいですね。

ICOについて(3)

 少年が、少女の手をひいて歩くゲームといえば、私としてはICOの話は済んでしまう。
 それだから、小説を読んだ、ICOがどうしてプレイヤーに受け入れられたか、という周辺の話をしたのだが、すこしだけ本当のところを掘り下げてみよう。

 古城がある。どこもかしこもほこりかすが溜まっていて、もうどれくらいこうしたまま打ち捨てられているか分からない。あらかた荒らしつくされたのか、どの間を覗いても、椅子や机といった家具も、壁に掛けられていたはずの絵や彫像も見当たらない。人が暮らしていたという痕跡はどこにも残っていない。そんな歴史はなかったかのようだ。
 それでいて、いたるところに松明が焚かれている。間と間をつなぐ扉や仕掛けは、こうなると錆びれて動きそうにないように思えるが、すんなりと動いて道を開ける。庭には雑草ひとつ生えていない。これがもし人為のものとしたら、一体どんな意図があるのだろう。画面ごしから見ている私は、きゅうに寒気を感じた。松明やよく刈られた庭に人の底意を想像したからではない。むしろ超自然的な、いってみれば古城そのものの意思とでもいうようなものが、一瞬だけ頭をよぎったからだ。

 庭から門へいく道の脇に、巨大な騎士の石造が建っている。宮部みゆきもモチーフにしていた、頭に二つ角を生やした異形の騎士像である。
 その騎士像の足元では、ICOの主人公である少年が、少女の手を引いて歩いている。
 少年はICO、少女はエルダという。ただ二人とも、言葉が通じていないせいで互いの名前を知らない。
 イコは年は10くらいだろうか、肌はよく日に焼け、目はくりくりしていて、歩き方から快活な印象をうける。
 古城にいるよりも、夏の山でせみや甲虫を追いかけるのが似合いそうだ。
 手を引かれているエルダは、白瑩くらいの、非常に薄い灰色の短髪で、袖の無い、白いドレスを着ている。肌もぬけるように白く、すっとした黒目なので、モノクロな姿だ。
 宮部みゆきもエルダの姿について小説で書いていたけれど、非常に不思議だ。現実にこんな少女はいないだろう。二次元にしかありえない格好ということではなくて、二次元としてもやはり不思議だろう。

 さておき、力強く歩くイコとはちがい、エルダにはどこかぼんやりしている印象がある。
 真新しいことや場所ばかりで、周囲を首をせわしく動かして見回しているICOに、視線を前にかためたまま淡々とついていっている。
 これまでも、というよりプレイしている間はずっとそうなのだが、イコはなんとか古城から出るために積極的に動いている。エルダは逆に、古城に出たいのか、残りたいのか、その動きからはなかなか分からない、読み取られてくれない。時にはエルダは非常に受け身で、イコが懸命に仕掛けに挑戦しているときに、日当たりのいい場所で散歩しているようなことがある。しかし不思議と腹は立たない。ただ、辛うじて生きているだけの、非常に希薄な命と感じてしまう。
 とつぜん黒い影が現れて、このエルダが連れ去られそうになるとき、私はどうしようもなく焦ってしまう。古城から出ることがこのゲームのゴールだけれど、エルダがいなければ意味がないという気がする。もちろん、エルダが連れ去られた時点でゲームオーバーになるのだが、そんなこととは関係なく、私はエルダを救いたいと思う。


 どうしてエルダを救いたかったのだろう。すでにプレイを終えて数年たった今、私はそう問い返してみる。もちろん、目の前で少女が浚われれば誰だって後味が悪いだろうけれど、それだけではない気がする。良識からいって、誰であれ、人の命の危険があるときに手をさしのべるのは当然ではあるけれど、エルダの場合は特別なのだ。エルダは、誰であれ、のうちの一人ではない。かといって、好きなキャラクター、近しい人に似ているキャラクターというのでもない。だから不思議なのだ。

 多分、それを書くには、私の思い出したくない思い出を、掘り起こしてしまう必要があるのだろう。それには耐えられそうに無い。この作文はここまでで終わることにする。

読書記録 12月一週

 私は読書習慣のあるときでなければ、何のモチベーションもありませんし、創作のきっかけももてないので、これからなるべく多く本を読むことにします。目安としては、今は仕事も多くないので、一ヶ月に十冊かな。ただ記事にしたICOや張ウ名人の啓発書のような、比較的軽い読み物ならいいのですが、それよりも読むペースが落ちるものなら一ヶ月に十冊は無理なので、それは二冊分で換算することにします。勿論漫画や、私が寝るときによく読む短編や童話もの(いい年してメルヘン)などは除外します。

とりあえず第一週は、

ICO(上)
ICO(下)
勝利は10%から積み上げる

の三冊ですね。どちらも軽い読み物ですが、どちらからも触発されました。やはり本は、読んでみないと分かりませんね。

人生において、一体なにを積みあげればいいのか

 読者が0に等しいため、はっきり言ってしまうとブログとして機能していないのですが、それには眼を瞑ることとして、12月はブログ強化月間にします。試行錯誤して、より簡潔にものを書く力をつけたいです。
 張栩の勝利は10%から積みあげるという本が面白く、休憩の二時間を使って読み切ってしまった。張栩とは、七大タイトル戦史上初の五冠を達成した棋士である。囲碁に興味のない人には何のことか分からないかもしれないが、将棋でいう羽生善治のようなものといえなくもないかもしれない。ともかく囲碁で強い人なのである。

 この本は囲碁を知らない読者向けに書かれたものだが、そもそも勝利は10%から積みあげる、というタイトルの意味は、囲碁という競技の内容を知らない人には理解しづらいかもしれない。
 まず、10%とは何のことか。張栩は、相手が誰であれ、自分より上手であれ下手であれ、勝つ確率は10%とみなして勝負に臨むのだそうである。普通なら五分五分とみなすところだろうが、あえて10%からとするのが張栩流だろう。
 そして「積みあげる」とは何か。これは、他の競技にはない囲碁独特の感覚ではないかと思うのだが……たとえば、必ず判定までいくボクシングを想像してみよう。相手の攻撃をかわしたり、こちらの攻撃を当てたりしながらこつこつポイントを稼いでいく、すると最終ラウンドが終わった時点でよりポイントを取ったほうが勝者になるわけだが、「積みあげる」という言葉にはそのようなイメージがこもっている。
 勝利は10%から積みあげるとはつまり、始まった時点では10しかない勝ちを、相手からこつこつポイントを奪っていき、より100に近いところまで持っていこうという、張栩独自の勝負観を表した言葉なのである。
 そんな積み立て貯金みたいな考え方で明確に優劣を問われる勝負の世界で頂点をとったということには、勿論驚いているが、それより私にとって興味深いのは、その勝負哲学が本人の性格からきていることは勿論、人生観にも通じているところで、人生の大きな目標のために一体なにをどう「積みあげ」ればいいのかという点で、この本からいくつか指標をもらったのである。

 人生の大きな目標とはいえないかもしれないが、私は、たった一度でいいから自分の創作を完成させてみたい。そのために何を積みあげればいいか、ということで、とりあえず12月をブログ月間にしようと思いついたわけなのである。一月になったらより実践的な目標を立ててみようと思っていますが、まずは、ICOについての続きを書きましょうか。

ICOについて(2)

 私にとって、ICOとは何か。一言でいってしまうなら、それはひとつの情景である。ちいさな男の子が、女の子の手をひいて、迷いながら歩いていく、そういう情景である。謎解き要素、妨害する黒い影や女王、ストーリーや、当時としてはよほど質の高いCGでつくられた古城などは、その情景を表現する手段でしかないようにみえる。プレイし終えてから時間が経って、思い出の一つになった今となっては、よりその感が強くなっている。

 しかし客観的にみると、この情景は本媒体であっても表現することが可能だろう、小説でも、漫画でも、同じことを表現しているものは他にもあるような気がする。ではなぜICOが私を含めプレイした人にとって特別になったというと、そもそもICOがゲームであるところに理由があるように思える。

 私も学生のころはゲームが好きで、母親にゲームは息抜き程度にしなさいとよく言われたけれど、にもかからわず沢山やった。これが読書なら、勉強しなさいくらいのことは言われた覚えがあるが、ゲームのときほど強くは言われなかった。これは私ではなくて母親自身の考えなのだけど、ゲームというのは刹那的な快楽を楽しむものだそうだ。だから、息抜き程度で済ませなさいということだ。子供のころゲームをやった人なら、きっと同じようなことを大人から言われただろう。

 親というのは、例外もあるけれど子供のことをよく見ているもので、もし、私がゲームから何かいい影響を受けていたのなら、そんなにうるさくは言わなかっただろう。結局のところ私は惰性的にゲームをのめりこんでいただけで、そこから受け取ったものは殆どなかった。受け取ったもの僅かなものの中で一番美しいのが、このICOの情景である。だからこそ、私にとって砂漠で光る一粒の宝石のように貴重なのである。

 amazonに投稿されている感想を見ていると、ICOから何かを得た人は、私のように、息抜きでゲームを楽しめるほど器用ではない人間が多いような気がする。すこしペシミスティックではあるけれど、ゲームにはないはずのものがICOにはあった、だからこそ特別になったのだろう。つらかったときに、たった一人やさしくしてくれたあの人のように。なんてね。

ICOについて(1)

 最近よく行く駅地下にある書店をひやかしたときに、宮部みゆきのICOが文庫になって、売れ筋トップ10の棚に並んでいるのが見えた。
 私は、宮部みゆきは代表作をほんの半分だけ齧った程度だが、どうも苦手意識があってそれ以降手を出せないでいた。けれどこのICOだけは、新書だったころからとても気になっていた。
 ICOというゲームが好きだったから。この異色のゲームに一流の作家がどんな解釈を加えるのか気になっていた。
 これは、宮部みゆきの原作ではなくて、ICOというTVゲームを小説化したものである。ゲームのノベライズはFFやドラゴンクエストのような有名なゲームには必ずあるけれど(どれも読んだことはないが)、一つの独立した作品として楽しめるものは少ないだろう。そのなかで、小説としてのICOは、ベストセラー作家の手によって独立した作品として創られた大変珍しいもので、もし、小説のジャンルにゲームのノベライズという括りが存在するなら、これはその頂点かもしれない。
 今はどうなのか分からないが、これが新書で発刊されたころの宮部みゆきは相当なゲーム通で、ある作家同士で運営していたHPでは定期的に宮部みゆきの一言メモのようなゲームレビューが挙げられていた。おそらくICOも、その当時プレイしたゲームのひとつ、ということだろう。

 ゲームとしてのICOは、ゲームという括りの中では滅多に見られない、心の糧になる作品だった。殆どのゲームはプレイを終えたあとに、プレイヤーに何も残すことはできないが、ICOは沢山の人に何かを残していった。そのことは、アマゾンにある数百件のレビューを見ればすぐに分かるだろう。
 私もゲームはやったほうだが、ICOのプレイを始めてから暫く、BGMもなく、ストーリーもはっきりしない、ただプレイヤーが操作する少年が、少女の手を引いて遺跡を歩き回っている、謎解き要素やプレイヤーを妨害する敵である黒い影も、申し訳程度のゲーム性としか思われず、そのシュールな内容に呆気に取られていた。けれどプレイを続けているうちに、少年が少女の手を引いている光景が情景として深く心にしみこんでくるようで、ICOというゲームに出会えたことが奇跡的だったとさえ思うようになった。

 私は、その書店で文庫のICOを買い求めた。エンターテイメントの位置づけにある小説を読むのは久しぶりだったけれど、ICOを買い求めたのは、プレイしたときのことを思い出したかったからだ。
 実際読んでいると、様々な光景が記憶の底から浮かび上がってきた。作者の独自の解釈も良かった。好きな本にたいする他人の感想を読んで、ああ、そこからこんなものが見えるのかと、感嘆するのにも似て、本当に楽しかった。
 だからこうして、感想のために久々に文章を綴っている次第である。

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